レルヒ中佐の足跡 (2007.1.23)
2009.08.19
テオドル・エドラ・フォン・レルヒ中佐は,1869年(明治2年)8月31日,ハンガリーのプレスブルク(現在のスロバキアの首都プラチスラバ)で生まれ。プレスブルクは,オーストリアのウィーンに近い国境の町。父も軍人で,ウィーンの学校を出て軍人となり,スキーを,オーストリアの第一人者で世界初のスキー書「リリエンフェルト・スキー滑降書」を著したマチアス・ツダルスキーに学んだ。
レルヒは,1910年(明治43年)11月30日,日露戦争に勝利した日本の軍事研究のため横浜港に着く。当時少佐のレルヒは,多雪地への配属を要望,翌年1月5日,第13師団歩兵第58連隊が所在する新潟県の高田(現在の上越市)に赴任した。( ※ 写真は,上越市の「日本スキー発祥記念館」にあるレルヒ中佐の像です。)
レルヒは,東京の歩兵工廠にスキーを注文,取り寄せる。師団長の長岡外史中将は,連隊長の堀内大佐をスキー研究委員長に任命。12人の将校とともに3月12日までの34日間,スキー携帯法・行進法・登行法・滑降法・制動直滑降等の指導をレルヒから受けさせた。その時,県内の中学校の体育教師も講習を受けている。
同年9月,中佐に昇進したレルヒは,1912年2月6日,第7師団野砲第7連隊付きとなり,旭川へ赴任。レルヒの名は,スキー指導者としてすでに全国に知られていた。第7師団でも研究会がつくられ,各連隊からの将校3人ずつが2月20日から3月11日までレルヒの指導を受けた。
講習はリリエンフェルト式で,先に金物の石突きが付いた約2メートルの単杖竹(1本杖)を用い,スキーは単板2枚,金具はかかとが上がるスプリング付きのアルパイン式。シュテムファーレン,ボーゲン回転法・直滑降などを指導した。
受講した月寒第25連隊の三瓶勝美中尉・松倉儀助中尉・中澤治平少尉の3人は,札幌へ戻り「レルヒ直伝」講習会を3月22日から開く。軍人のほか東北帝大農科大(現北大)の学生や中学体育教師・一般の人も参加した。月寒練兵場と月寒小学校裏の丘で行われ,斜面滑り・片足滑り・急斜面電光形登りなどの基礎技術を学んだ。
3月31日,三瓶中尉ら軍人と学生10人は,藻岩山でスキー登山を行った。現在のロープウエイ近くからジグザグに登り,山頂まで約1時間20分。下りは現在の市民スキー場近くを滑り,藻岩下から石山通りへ出て,南36条から豊平川を渡り,真駒内牧場へ達した。同中尉らは,その後も4月5日に三角山登山。7日には小樽へ遠征している。
レルヒら一行は4月16日,旭川から倶知安へ汽車で行き,翌17日に羊蹄山に登った。一行は,中澤少尉を含む11人。午前8時35分に出発し,約9時間かけ登頂,午後5時40分には戻った。このことが当時の新聞に大きく取り上げられ,スキーのおもしろさが広まり,スキー熱は大いに盛り上がった。
視察のため派遣されたレルヒだが,日本にスキーを伝え広めることに大きく貢献した。オーストリアに戻ったレルヒは,その後少将に昇進,1945年12月23日,ウィーンで没した。77歳だった。墓は,ウィーンの中央公園墓地にある。
( この文章は,本会会長の原田廣記が北海道新聞の依頼を受けて寄稿し,2003年4月19日付の北海道新聞に「レルヒ中佐の教え子たち,札幌で直伝講習会」と題して掲載された文章の草稿です。)